野辺送り
「百閒(けん)先生 月を踏む」(久世光彦著 朝日文庫)を読んでいたら、こんな件(くだり)に出会った。百閒(けん)先生とは、内田百閒(けん)、独特の風合いを持つ小説や随筆、汽車旅行記などで知られる作家のことだ。
――百閒(けん)先生が六高のころの文学仲間に、堀野寛(ゆたか)という友人がいて、二年のときに肺病で死んだ。備州の葬列は長かった。先生は堀野の棺の後に従って、岡山の町筋を泣きながら歩いた。三月の寒い夕暮れだった。赤い旗を持たされて、橋本から京橋へ上っていくと、川っ縁から吹き上げる風に、坊さんが掲げた〈本来無東西〉と書かれた紙が、千切れそうに翻ったという。――先生は足が竦(すく)んで、火葬場に入れなかった。
私にも似たような経験がある。似て非だが。
内田百閒(けん)の郷里岡山市と同じ備前の国の、しかしその東のはずれ、県境の山のふもとにある小さな町が私の母親の里だ。私がまだ若く母親も元気だったころ、その町の母親が育った家で伯父が死んだ。その葬儀のときに同じような葬列を経験したのだ。百閒が友人の葬列に並んでからもう70年ほども経ったころだ。
家の前の道路で行列を組んで、黒服の上から肩衣(というのだろうか)を羽織った姿で旗を持って、あるいは親族の若い者として柩を担いでだったかもしれないが記憶はあいまいだ、2百メートルか3百メートルか、距離は忘れたが少しだけ進んだところで「野辺送り」は終わった。あとは車で火葬場まで移動した。
火葬場まですべて歩いていたのはいつまでだったのか分からない。そのころは葬列が家から出て行くという形だけが残っていたのだが、今はもう、そういう形すらなくなったのではあるまいか。
墓は家の裏山の斜面をちょっとだけ登った所にあった。その家にも長く行っていない。
野辺の道を火葬場まで歩く正真正銘の野辺送りを経験したことが一度だけある。ある人の父親か母親が亡くなったとき、どこだったか忘れたが青森県のある町で行われた葬儀に参列したおりのことだ。その人はしきりに恐縮していたが、亡くなった人をこういう昔ながらのやりかたで送る習慣が残っている現場に来合わせたことは得がたい経験だった。残念なことに、その詳細は忘れてしまった。
本を読むということは、本の中に入り込むことのほかに、行間、字間のわずかな隙間からこぼれ出て別のところでしばらく遊ぶことにも大きな楽しみがある。
――百閒(けん)先生が六高のころの文学仲間に、堀野寛(ゆたか)という友人がいて、二年のときに肺病で死んだ。備州の葬列は長かった。先生は堀野の棺の後に従って、岡山の町筋を泣きながら歩いた。三月の寒い夕暮れだった。赤い旗を持たされて、橋本から京橋へ上っていくと、川っ縁から吹き上げる風に、坊さんが掲げた〈本来無東西〉と書かれた紙が、千切れそうに翻ったという。――先生は足が竦(すく)んで、火葬場に入れなかった。
私にも似たような経験がある。似て非だが。
内田百閒(けん)の郷里岡山市と同じ備前の国の、しかしその東のはずれ、県境の山のふもとにある小さな町が私の母親の里だ。私がまだ若く母親も元気だったころ、その町の母親が育った家で伯父が死んだ。その葬儀のときに同じような葬列を経験したのだ。百閒が友人の葬列に並んでからもう70年ほども経ったころだ。
家の前の道路で行列を組んで、黒服の上から肩衣(というのだろうか)を羽織った姿で旗を持って、あるいは親族の若い者として柩を担いでだったかもしれないが記憶はあいまいだ、2百メートルか3百メートルか、距離は忘れたが少しだけ進んだところで「野辺送り」は終わった。あとは車で火葬場まで移動した。
火葬場まですべて歩いていたのはいつまでだったのか分からない。そのころは葬列が家から出て行くという形だけが残っていたのだが、今はもう、そういう形すらなくなったのではあるまいか。
墓は家の裏山の斜面をちょっとだけ登った所にあった。その家にも長く行っていない。
野辺の道を火葬場まで歩く正真正銘の野辺送りを経験したことが一度だけある。ある人の父親か母親が亡くなったとき、どこだったか忘れたが青森県のある町で行われた葬儀に参列したおりのことだ。その人はしきりに恐縮していたが、亡くなった人をこういう昔ながらのやりかたで送る習慣が残っている現場に来合わせたことは得がたい経験だった。残念なことに、その詳細は忘れてしまった。
本を読むということは、本の中に入り込むことのほかに、行間、字間のわずかな隙間からこぼれ出て別のところでしばらく遊ぶことにも大きな楽しみがある。
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