2009年7月10日 (金)

野辺送り

 「百閒(けん)先生 月を踏む」(久世光彦著 朝日文庫)を読んでいたら、こんな件(くだり)に出会った。百閒(けん)先生とは、内田百閒(けん)、独特の風合いを持つ小説や随筆、汽車旅行記などで知られる作家のことだ。

 ――百閒(けん)先生が六高のころの文学仲間に、堀野寛(ゆたか)という友人がいて、二年のときに肺病で死んだ。備州の葬列は長かった。先生は堀野の棺の後に従って、岡山の町筋を泣きながら歩いた。三月の寒い夕暮れだった。赤い旗を持たされて、橋本から京橋へ上っていくと、川っ縁から吹き上げる風に、坊さんが掲げた〈本来無東西〉と書かれた紙が、千切れそうに翻ったという。――先生は足が竦(すく)んで、火葬場に入れなかった。

 私にも似たような経験がある。似て非だが。

 内田百閒(けん)の郷里岡山市と同じ備前の国の、しかしその東のはずれ、県境の山のふもとにある小さな町が私の母親の里だ。私がまだ若く母親も元気だったころ、その町の母親が育った家で伯父が死んだ。その葬儀のときに同じような葬列を経験したのだ。百閒が友人の葬列に並んでからもう70年ほども経ったころだ。

 家の前の道路で行列を組んで、黒服の上から肩衣(というのだろうか)を羽織った姿で旗を持って、あるいは親族の若い者として柩を担いでだったかもしれないが記憶はあいまいだ、2百メートルか3百メートルか、距離は忘れたが少しだけ進んだところで「野辺送り」は終わった。あとは車で火葬場まで移動した。
 火葬場まですべて歩いていたのはいつまでだったのか分からない。そのころは葬列が家から出て行くという形だけが残っていたのだが、今はもう、そういう形すらなくなったのではあるまいか。
 墓は家の裏山の斜面をちょっとだけ登った所にあった。その家にも長く行っていない。

 野辺の道を火葬場まで歩く正真正銘の野辺送りを経験したことが一度だけある。ある人の父親か母親が亡くなったとき、どこだったか忘れたが青森県のある町で行われた葬儀に参列したおりのことだ。その人はしきりに恐縮していたが、亡くなった人をこういう昔ながらのやりかたで送る習慣が残っている現場に来合わせたことは得がたい経験だった。残念なことに、その詳細は忘れてしまった。

 本を読むということは、本の中に入り込むことのほかに、行間、字間のわずかな隙間からこぼれ出て別のところでしばらく遊ぶことにも大きな楽しみがある。

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2009年7月 8日 (水)

剱岳 点の記

 映画「剱岳 点の記」を観てきた。新田次郎の同名の小説を映画化したものである。
 点の記とは、三角点などを測量し設置したときの測量や設置した三角点などに関する事項を設置に至るまでのもろもろのことを含めて記載した記録のことのようだ。
 剱岳に三角点を設置するまでの過程が、新田次郎の手で感動的な物語になり、木村大作によって映画になった。

 明治維新後、陸軍測量部は日本地図の作成を進めていて、明治30年代末ごろにはほぼ完成した。ただ一箇所残ったのが、剱岳とその周辺だ。剱岳は、多くの山がしばしば修験者などによってすでに脳長されている中で、誰も登ったことがないと言われる峻嶮で、参謀本部陸地測量部の測量官たちは地元の案内人たちとともに周辺の測量と剱岳の登頂に挑む。名利を求めず、あせらずくじけず、使命を遂行していく彼らはすがすがしい。

 映画は、原作の水準の高さに支えられた骨格の確かさと、実際に山に入って撮影した映像のすばらしさによって見ごたえのあるものになっている。

 この映画の登場人物の中で香川照之が好演する謙虚な山案内人宇治長次郎が特に私の印象に残った。明治40年7月、登頂を控えた頂上直下で、先導していた長次郎が測量官柴崎芳太郎に先頭の位置を譲ろうとし柴崎が固辞する場面では、先日書いた電車の中の席の譲り合いの話を思い出してしまったが、元来謙虚は日本人の美徳なのだ。

 それにしても、今のものに比べると圧倒的に粗末な登山用具で、よく山に登れたものだと感心する。たとえば履物は足袋に草鞋(わらじ)で、雪道では4本爪程度のアイゼンを着けていたが、そんな足回りで雪渓やごろごろ石の岩場を歩きまわったのだから、もう超人的だ。まあ、アベベは裸足でマラソンを走ったというから、現代人の足がやわ過ぎるのかもしれない。

 原作を読んだのはずいぶん以前で筋は忘れてしまった。どこにしまったか分からなくなったので再読しないで映画を観たのだが、図書館で借り出してもう一度読んでみようかと考えた。
 念のため、インターネットで在庫状況を調べたところが、何冊かある市内の図書館の「剱岳 点の記」はすべて貸し出し中で、予約者が最新刊で二十何人、古い刊行本でも何人、十何人と並んでいた。
 ついでにインターネットで調べてみると、歴史的事実は映画とは若干異なる部分もあるようだ。それが悪いというのではなく、しかし歴史小説でどこまでが史実でどこにフィクションが挟まれているのかということは私には気になるのだ。

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2009年7月 6日 (月)

電車の中で 2

 妻が外出から帰ってきて、電車の中でこんなことがあったと話した。

 やや混んだ電車が駅に止まって、乗客が降りて空いた座席のひとつに、斜め前に立っていた60代半ば過ぎの女性が座った。反対側の斜め前には70代と思しい女性が立っていた。

 座席を得た女性は、座ってから立っている女性に気づいた。すぐ立ち上がって年長の女性に席を譲ろうとした。だが、年長女性は遠慮してなかなか座らない。
 譲ろうとする女性と遠慮する女性との間で長々と譲り合いが続けられた末にようやく決着がついて、遠慮する女性が座席に座った。譲った女性は反対側の窓のほうへ移ってつり革を持って立った。

 譲られた女性の隣の乗客が2つめか3つめの駅で降りた。譲った女性は後ろ向きなので気づかない。ほかの立っている乗客は誰も座らない。
 譲られた女性が譲った女性に「空きましたよ」と伝えたが、譲った女性は「次で降りますから」と言って座らず、ドアのほうに移動して次の駅で降りた。そのあと、立っている乗客の一人がその席に座った。

 話はそれだけなのだが、聞きながらいろいろと考えた。

 一つの空席を挟んで老年に差し掛かった女性と老年に入った女性が「どうぞお座りになって」「いえ奥さんがどうぞ」と言ったかどうか知らないが延延と果てしなく譲り合っている間中、その両側の6つの座席にはずっと年下の男女が腰掛けたまま知らん顔。
 まったく近頃の若い者は、というのがこういうときの常套句だが・・・

 だがしかし、たぶん、彼らの心のうちでは、全部ではなかったかもしれないが、尻が落ち着かない気持ちでいたに違いない。譲れるなら譲りたいと、少なくとも何人かは心の中で思っていたのではあるまいか。
 もし全員が、見かけどおり心の中でもまったくこのやりとりに無関心だったのであれば、日本の将来は暗い。

 彼らは気軽に立ち上がって「どうぞ」と声をかけることができないのだ。仲間内では仲間ことばで自由に話せるが、仲間の外の世界とはコミュニケーションが取れないのだ。
 いや、もしかしたら仲間内でもことばではうまく話せないかもしれない。もはやメールでしか思うことを伝え合うことができないかもしれない。

 近くに立っていた乗客も二人のやり取りを知っているから、席が空いたとき誰も座ろうとしなかった。といって、譲った女性に声をかけたわけでもない。

 なぜ、席一つ譲るだけのことなのに、席が空いたことを一言伝えるだけのことなのに、ことばが出ないのか。それが日本の社会なのだ。仲間同士のくだけた会話と、公式の格式ばった定型的なことばのやり取り(たとえば相撲の昇進などのときの口上がそうだ)と。この二つがあって、中間がない。
 内と外。外は別世界。外と対するときは貝になる。

 たまたますれ違ったり、近くに居合わせたり、何かの淡いつながりができたり、という軽い接触関係になった知らない同士が軽くことばを交わす、そういう中間的なところでのちょっとした会話が苦手なのだ。そういう訓練も受けていない。
 知らない同士は、エレベータの中でもどこでも、たまたま同じ場所にいることになったときに相互に言葉を交わすことがない。交わさざるを得なくなってもぎこちなく、何を話せばいいのか分からず、うまく対応できない。

 延延と遠慮し続けた女性も、状況が把握できず、会話が実質的に成立しなかったのだから、外の世界との適切な対応ができなかったといえる。あるいは、まだ若いのに年寄り扱いして、と思って意固地になったのかもしれないが。

 というのが考えたことなのだが、実際のところは果たしてどうなのだろうか。

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2009年7月 5日 (日)

電車の中で

 急行の止まらない駅で、ホームの端のベンチに座っていた夫婦らしい中年、というよりもう少し上の高年といっていい男女が、入ってきた電車に乗り並んで腰掛けた。
 女は男のほうに顔を向けて話しかけている。男はそれに応じて話を返す。二人の会話は途切れない。
 二人とも脚を組んだ。座席に寄せ掛けたビニール傘がすべって床に落ちた。女は組んだ脚を下ろして傘を拾い、二人の脚と座席の間に横向きに収めた。上体を起こして再び脚を組んだ。

 電車は空いていて、夫婦の右側に空席をひとつ挟んで女性が座り、左側に子連れの女性が座っていた。二人ともケータイに余念がない。
 子供は席を取らないでドアのあたりをちょろちょろしていたが、母親のところに来て座りたそうなそぶりを見せた。母親は端に座っていたので母親の脇に空席はない。
 すると、二人は一つずつ右に移って子供のために席を空け、足元に手をやって傘もずらした。子供はそこに座った。母親は二人にあいさつしなかった。

 男は、引き裂いたように乱暴に開けたカシューナッツの袋をひざに置いた片手に持って、もう一方の手をときどき袋に入れては口に持っていった。女も横から手を伸ばして中のものを指につまんで口に入れた。
 男は口を開けた缶ビールを持っていた。駅のベンチで電車を待っていたときから飲んでいた缶だ。アサヒスーパードライ350ミリリットル缶。それを会話の合間にときどき口へ運んだ。

 女が男の持っている缶を取って口につけてぐいと缶底を上げ、一口飲んで男に返した。
 ちょっと間を置いて、手にしているコンビニの袋をごそごそし始めて、もう1本缶ビールを引っ張り出した。カシューナッツの袋も取り出した。缶ビールの口を開けて男に渡し、男の持つ缶を引き取ってかわりに袋に入れた。さっき女が飲んだときが最後の一口だったのだ。
 ビニール袋にカシューナッツ2袋と缶ビールを2本、もしかしたらそれ以上を用意しているが、ほかに荷物はない。遠出する身支度ではない。

 電車は隣の駅で停車し、特急と急行をやり過ごしてから発車した。もう一駅止まったあと3つめの駅にちかづくと二人は降りる様子を見せ始めた。降りた後ホームの端からゆっくり歩いて階段に向かった。2本目の缶ビールを電車に乗っている間に飲み終わったかのかどうか、わからない。

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2009年7月 4日 (土)

真夏のオリオン

 映画「真夏のオリオン」は、太平洋戦争最末期に、日本の潜水艦とアメリカの駆逐艦とが虚虚実実の駆け引きを展開して戦った物語である。
 昔の「眼下の敵」というアメリカ映画、アメリカ海軍ロバート・ミッチャム駆逐艦長とドイツ海軍クルト・ユルゲンス潜水艦長との息詰まる戦い、と同趣向だ。
 つまり、戦争映画であるが、あまり戦争映画らしくない。当時の実態はこうではなかっただろうと思うところがあちこちにあって違和感があり、その分現実感が削がれている。つまり、当時の潜水艦の内部の様子はいかにもこうであっただろうという感じがもうひとつだ。

 主人公の潜水艦長も同じく潜水艦長である親友も(その妹も)すらりとした長身なのは仕方がないとしても、二人の(あるいは三人の)陸上場面にも太平洋戦争の真最中という雰囲気がなく、また二人とも髪が長い。艦長が戦闘帽を脱ぐと長い髪がぱらりと現れるというのは違和感たっぷりだ。
 艦長は乗組員に対して丁寧語を使う。それだけでなくほかのことでも艦内は軍隊の階級序列感覚や戦闘中のぴりぴりした感じが希薄だ。
 戦闘場面もどうも臨場感が薄い。潜水艦の中の息苦しさ、圧迫感、恐怖感が十分には伝わってこない。

 敵駆逐艦より輸送船を狙ったが、そんなことを当時の潜水艦がしただろうか。当時の日本海軍は通商破壊戦を軽視し、輸送船を襲うより戦闘艦と戦うことを選んだ。それとも最末期には補給の重要性に目覚めて方針を変えたのだろうか。
 それより、アメリカ軍の輸送船団にそう簡単に接近できたのだろうか。アメリカのことだ、護衛を十分厚くしていたことだろう。
 もう一つ、人間魚雷回天を4基も取り付けていて運動性能が落ちているだろうに、駆逐艦を相手に丁々発止の戦いができたのどろうか。

 何年間艦長をやっていたのか不明だが、戦闘中に部下が事故で死んだのがおそらく始めての部下の死だというのは、潜水艦ではあり得ないことではなかったかもしれないが、当時の日本軍の悲惨な状態を思うときれいごとのように感じてしまう。

 回天搭乗員は早く出撃させてほしいと依願するのだが、いっこうに出撃の機会を与えない。中にはそういう艦長がいたかもしれないなと思う。あまりにも非人間的なそのくせ効果の少ない兵器を内心否定する艦長はいただろう。

 たぶん、当時の日本の、日本軍の、日本海軍の、日本海軍潜水艦の、あるいは戦争の、実態どおりの姿を背景にすると、今の時代には違和感があり過ぎるのだろう。私が感じた違和感とは逆の違和感が。

 それやこれやでこの映画はヒューマニズムごっこ映画のように見えた。緊迫感の不十分な戦争映画だ。あるいは、こんなだったらよかったのにという願望の理想的大日本帝国海軍潜水艦を舞台にした映画といえようか。
 私とて当時のことを十分知っているわけではないから、私の感じ方が間違っているのかもしれない。だから、これは私の個人的な感覚的な印象である。
 まあ作成側の意図は、いちいち重箱の隅をつつくように詮索してあげつらうなどということをしないで、映画を楽しめ、ということなのだろう。

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