緑道で
痛むアキレス腱をかばいながら歩くのにもだいぶなれた。右のかかとを浮かさないようにしながら、ゆっくりと歩けばいい。戻りへの分かれ道にさしかかるたびにもう少し遠くまで、もう少し、と何度か距離を伸ばして、区切りのいいところで緑道を引き返した。
そろそろ緑道から離れる手前で、おばあさんが木陰のベンチに腰掛けていた。夏への用意なのだろう、すだれを2本入れた買い物カートを前に置き、その取っ手に片手をかけて休んでいたが、その顔は柔和だった。つい見とれてしまうほどだった。
快い季節の中にひたっていることを楽しんでいたのだろうか。歩いて疲れた体を吹きぬける風にほっとしていたのだろうか。何かいいことがあったのだろうか。娘さんから母の日のプレゼントをもらったとか、何人めかの孫が生まれたとか。
いや、おばあさんは過ぎ去った日々のことを思い出していたのではないだろうか。そのほうがしっくりする表情のように思えた。
話しかけて訊(き)いてみたいほどだったが、そういうわけにはいかない。あれこれ想像しながら前を通り過ぎた。
そういえばずいぶん以前、親不孝者の私でもたまには母のところに帰ったが、あるときいっしょに買い物に行ったことがある。昔はなかった広い道が縦横に走り、田んぼだったところに大きな店ができていて、広い駐車場があった。
それ以前に帰ったときは、何軒かの店の名前をあげてそれぞれの店の場所や特徴を言ったり、もっと遠いところにある病院まで歩いて行ったりしていたが、そのときはもうそんなにあちこち歩き回る体力はなくて、行くのは近いところにある大きな店だけだったようだ。私が久しぶりに帰っても、もう台所に立って食事をこまごまと用意することはできなくなっていた。その後何年かするうちに自分で歩いて買い物に行くこともできなくなった。
食料や日用品を買いに行くときあるいは買ったものを入れたカートを引いて帰るとき、歩きながら老母は何を考えただろうか。母のことだから、緑道のベンチに腰掛けていたおばあさんと同じように柔和な顔をしていたに違いない。その顔を見て通りがかりの人は、このおばあさんはきっと昔のことを思い出しているのだと思っただろうか。
おばあさんおばあさんと書いたけれど、その「おばあさん」はよく考えれば私と似たような歳かっこうだったようだ。そして、なんのことはない、昔のことを思い出していたのはベンチに座る「おばあさん」ではなく、道を歩く老母でもすれ違う人でもなく、私自身だった。
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