2012年5月14日 (月曜日)

緑道で

 昼過ぎにウォーキングをした。うすい雲か水蒸気が広がっていたのか日ざしはやわらかで、風はやや強かったがそれで体感気温がやや下がり、すこし汗ばみながらも気持ちよく歩けた。
 痛むアキレス腱をかばいながら歩くのにもだいぶなれた。右のかかとを浮かさないようにしながら、ゆっくりと歩けばいい。戻りへの分かれ道にさしかかるたびにもう少し遠くまで、もう少し、と何度か距離を伸ばして、区切りのいいところで緑道を引き返した。

 そろそろ緑道から離れる手前で、おばあさんが木陰のベンチに腰掛けていた。夏への用意なのだろう、すだれを2本入れた買い物カートを前に置き、その取っ手に片手をかけて休んでいたが、その顔は柔和だった。つい見とれてしまうほどだった。
 快い季節の中にひたっていることを楽しんでいたのだろうか。歩いて疲れた体を吹きぬける風にほっとしていたのだろうか。何かいいことがあったのだろうか。娘さんから母の日のプレゼントをもらったとか、何人めかの孫が生まれたとか。
 いや、おばあさんは過ぎ去った日々のことを思い出していたのではないだろうか。そのほうがしっくりする表情のように思えた。
 話しかけて訊(き)いてみたいほどだったが、そういうわけにはいかない。あれこれ想像しながら前を通り過ぎた。

 そういえばずいぶん以前、親不孝者の私でもたまには母のところに帰ったが、あるときいっしょに買い物に行ったことがある。昔はなかった広い道が縦横に走り、田んぼだったところに大きな店ができていて、広い駐車場があった。
 それ以前に帰ったときは、何軒かの店の名前をあげてそれぞれの店の場所や特徴を言ったり、もっと遠いところにある病院まで歩いて行ったりしていたが、そのときはもうそんなにあちこち歩き回る体力はなくて、行くのは近いところにある大きな店だけだったようだ。私が久しぶりに帰っても、もう台所に立って食事をこまごまと用意することはできなくなっていた。その後何年かするうちに自分で歩いて買い物に行くこともできなくなった。
 食料や日用品を買いに行くときあるいは買ったものを入れたカートを引いて帰るとき、歩きながら老母は何を考えただろうか。母のことだから、緑道のベンチに腰掛けていたおばあさんと同じように柔和な顔をしていたに違いない。その顔を見て通りがかりの人は、このおばあさんはきっと昔のことを思い出しているのだと思っただろうか。

 おばあさんおばあさんと書いたけれど、その「おばあさん」はよく考えれば私と似たような歳かっこうだったようだ。そして、なんのことはない、昔のことを思い出していたのはベンチに座る「おばあさん」ではなく、道を歩く老母でもすれ違う人でもなく、私自身だった。

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2012年5月 8日 (火曜日)

うっかり

 きょうは「食道・胃・十二指腸内視鏡(胃カメラ)検査」の日だった。
 きょうが検査日だということはカレンダーの5月8日の枡の中に「○○医院。10時半。食事抜き」と書き込んであったのだが、頭からはすっぽり抜け落ちていた。きのう出先で妻がふいに思い出して「あしたは検査の日ね」と言ったのだが、そのときは「ああそうか、朝はなにも食べられないのか」と、食べることができないことを残念に思った後すぐに忘れてしまった。
 そしてけさ、ふだんのとおりに目が覚めて、ふだんのとおりに朝の日課が進んで、その手順の中でとどこおりなく朝の食事が済んで、そのあとで、初めて検査のことが頭にぽんと姿を現した。どうじに「しまった」という言葉が口からぽんと飛び出した。きのうはなぜかひょいと思い出した妻もきょうはころりと忘れたままで、「どうしたの」とのんきに訊(き)き返した。

 予約が決まったのは4月のはじめだった。1か月以上も先の予約というのはすこし日数が開きすぎだ。そのうえ、予約のときにもらう予約日時と注意事項を書いた紙をいつもはカレンダーの下に貼るのだが、今回はそれを忘れた。
 胃カメラなどは、口から入れるのか鼻から差し込むのか知らないが、飲みたくない。そういう気持が無意識下にあって、ではなく、はっきり意識しているのだが、それが潜在意識の中に沁み込んでいたずらをしたに違いない。いやなことは忘れろ。紙を貼ることも忘れろ。手遅れになってから思い出させてやる。

 8時半に予約先の医院に電話を入れて事情を説明した。出たのは受付で、すぐ看護婦に変わり、また説明した。彼女は質問する、食べたのは何時ころですか。もしかしたらきょう受けられるかもしれないと、しばらく誰かと相談していたようだが、無理だった。無理でよかった。検査を受ける心構えができていない。
 2週間後はどうですかと言う。時間は12時半。それは困る。朝を抜くだけでも苦痛なのに、昼も抜いて受けるのはかんべんしてほしい。でなければ、1か月後ならば8時半が空いていると。ずいぶん先だけれど、あとはみんな埋まっている。しかたがない、日にちが遅くなっても時間の早いほうがいい。それに、いやなことを先送りできる。
 けれど、こんどはもううっかり忘れるわけにはいかない、紙をカレンダーにしっかり貼っておこう。覚悟を決めて検査を受けよう。

 それにしても、予約がずっと詰まっているということはちょっと驚くべきことではあるまいか。何人も何人もの人が順番待ちして毎日毎日その個人医院で胃カメラを飲んでいるのだ。それともそんなことにいちいち驚くことのほうが驚くべきことだろうか

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2012年5月 1日 (火曜日)

今も昔も

 4月の終わりから5月の初めにかけては、さわやかないい季節だ。そして長い連休。この大型連休は、私のいまの日常生活の中では年中続く超超大型連休に埋没してしまったが、かつては毎年毎年この連休を待ち望んでいたものだ。
 そのころの高揚感がまだこころのどこかに残ってでもいるのか、連休というと今でもなんとなく心がふわりと浮き立つ。とはいっても連休を利用してあちこち旅行して回ったりしていたわけではない。

 就職して関東に出て来てからの数年間は、毎年正月と春の連休は親元に帰っていた。
 そのころはまだ土曜日は休みでなく、「みどりの日」も「振替休日」もなかったから、連休といっても今ほど長くはなかった。けれど、休日は日曜日とたまの祝日だけ、運が良ければ日曜日と祝日が連なる、悪ければ日曜日と祝日が重なる、という中で春の連休と年末年始休暇は輝いていた。

 連休前日の夜、仕事が終わると東京駅に行って、夜行急行「宮島」に乗った。寝台急行ではない。座席指定でないボックスシートの夜行列車だ。その分だけ安かった。車内はがらがらで、向かい合った4人分の席の片側に横になり、足を向こうの席に乗せて寝た。
 どこまで走ったか分からないが、そのうちに車掌に揺り起こされる。乗客がだんだん増えてきている。足を下ろして向かい側の2人分を譲るが、こっち側2人ぶんの席は確保して、横になったままふたたび眠りに落ちる。どれぐらい寝たか、またまた起こされる。さらに乗客が増えている。起き上がって窓側に寄る。もうぐっすりとは眠れない。眠くてたまらないけれど眠り入ることができないまま列車は走る。
 夜が明ける。列車は播州平野から次第に山地に入る。県境の長いトンネルを抜けるとわがふるさとの県。ああ帰ってきたという感慨が沸く。
 線路からほんのすぐ近くに迫る山の急斜面に生える木々の芽吹いたばかりの若い葉が、つぎつぎと目の前に来ては流れるように去る。
 今も昔も5月の初めは新緑の季節だ。新緑というと長い間私は、このとき目にした車窓の若緑を思い出した。新緑は帰郷の色だった。今の時期のみずみずしい若葉を意識してしげしげと見るようになったのは、仕事をやめてからだ。
 列車は、すぐに母親の実家のある馴染みの町を通過し、田園や町を通り過ぎながら、郷里のある駅に向かう。

 帰省するのは、道中だけでなく、乗りたい列車の切符を取るのも、「ふところ」も楽ではなかった。帰ったところで、せいぜい友だちと会うぐらいで、特別なことをしたわけではなかった。それでも帰った。いま思えば母親にとっては手のかかる息子がゴロゴロし、弟妹にとってはたまに帰ってきた兄がえらそーにして、どっちにとってもやっかいだったのかもしれない。けれど私にとっては、かつて長年住み慣れたところでのんびりとしているというのが心地よかった。昔も今も出不精は変わらない。
 そして短い連休はあっというまに終わって、また苦労しながら日常へ戻っていった。

「宮島」に乗った回数は多くない。寝台特急に乗ったり、新幹線に乗ったり、大阪から在来線に乗り換えたりもしたが、「宮島」がいちばん思い出深い。
 数年後に結婚して一気にふるさとは遠くなった。

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2012年4月27日 (金曜日)

上がるのか下がるのか

 今月の20日の朝日新聞に「太陽まもなく冬眠?」という見出しで、地球に低温期が到来する可能性があるというニュースが載っていた。
 ざっとした内容はこんなものだ。太陽観測衛星「ひので」によって太陽の磁極と黒点に異変が見られることがわかった。黒点活動はガリレオ・ガリレイ以来400年近くも詳細な記録が残されている。いまの様子は17世紀の異変時と似ている。このとき、太陽はその後約70年間の「マウンダー極小期」と呼ばれる冬眠期に入り、地球ではロンドンのテムズ川が凍り、京都の桜開花が遅くなり、日本では20世紀後半より気温が約2.5度低かった。

 同じ話題を、評論家の立花隆氏が今月10日に発売された「文芸春秋」5月号の巻頭随筆「太陽の謎」の中で書いている。私の興味にあわせてかなり恣意的に要約してみると以下のようになろうか。

 氏は国立天文台の常田佐久教授の「新しい太陽像」と題する講話を聞いて驚いた。太陽活動の観測をずっと続けてきた教授からいうと、いまほんとうに危惧されるのは、地球温暖化よりもむしろ、地球寒冷化の危機だという。

「ひので」は、2006年に飛びはじめてから大発見の連続で、世界でもっとも成果を上げつづけている。「ひので」以前と以後では太陽の見方が一変し、世界中の教科書が書き直された。
 なにしろ搭載されている3台の望遠鏡が際だったすぐれものなのだ。「ひので」以前を目の悪い人がメガネなしでぼんやり見ているとすると、「ひので」は度がピシリと合ったメガネでクッキリスッキリ見ている。

 太陽の基本構造になにか重大な異変が生じていることだけは確かなようだ。これから太陽活動が一層低下し、小氷期の再現のようなことが本当に起きるのかどうかは、まだ確証がつかめないが、備えは必要だ。小氷河時代は気候が不規則に急変した時代だった。これからしばらくは気候的には何でもありの時代になる可能性が強い。

(「ひので」によって何が観測されたのか、それがどういうふうに地球の気象に影響するのか、という部分はややこしいのですっぽり省いた)

 最後につぎの部分をそっくり紹介する。
「『厳冬と東風がつづいたかと思うと、ふいに春から初夏にかけて豪雨が降り、暖冬が訪れ、大西洋でしばしば嵐が起こる時代に変わる。あるいは旱魃がつづき、弱い北東風が吹き、夏の熱波で穀類の畑が焼けつくようになる』。
 その時代を描いたブライアン・フェイガン『歴史を変えた気候大変動』を読んでいると、これはいまの時代そっくりだと思えてくる。」

 このことをここで取り上げることにしたときは、夏の猛暑酷暑にすっかり辟易している私としては気温が下がるのは個人的には歓迎だというふうに締めるつもりだったのだが、書き進めているうちにそんなのんきな気分ではなくなった。

 温暖化への対策と寒冷化への備え、両構えが必要だ。それも生半可なことではすまないのではないか。「想定外」のことでも何でも起こり得ることを想定しておかなければならない。

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2012年4月25日 (水曜日)

健康教室

 3月に市から「特定保健指導における健康教室の開催について(お知らせ)」という案内が来た。
「先ごろお受けになりました特定健康診査の結果、特定保健指導対象者(動機付け支援)となりました。」「つきましては、特定保健指導の一環としまして健康教室『今日からあなたもメタボ脱出~自分の体を見直そう』を開催しますのでぜひご参加ください。」

 メタボ脱出とはなんだ、私はメタボではない、だから脱出の必要などない、健診ではすべての検査項目で正常だったのだ、と憤(いきどお)ってみたが、まあ引っかかったというのならしかたがない、何か悪いところがあるのだろう。何が引っかかったのか、行ってみればわかるだろう。という次第で4月の教室に申し込んで、半月ほど前に行ってきた。

 出がけにいつものようにもたもたして、開講直前に入室した。そのうえ一番前の席を与えられたので、会場の様子を観察することができなかったが、出席者は三四十人といったところか。テーブルを二つ三つ合わせた島がいくつかあって、それぞれに五六人が座っていたようだ。島ごとにアシスタントがついていた。

 開講。メタボとは何か。メタボの先に何があるか。メタボから脱出するために何をするか。運動はどうする。食事はどうする。などの講習と、目標設定。
 講師が話しているときにアシスタントがそばで個人別に補足説明をしてくれるのだが、声が重なると両方が混ざってどっちも聴き取れなくなる。

 もらった資料を見ると、対象者は健診数値が「健康指導判定値」あるいは「受診勧奨値」に該当する人のようだった。前者が黄信号、後者が赤信号というところか。
 私の該当する項目と数値は、腹囲85cm(「健康指導判定値」は85以上)、収縮期血圧130mmHg(同130以上)、LDLコレステロール120mg(同120以上)、HbA1c5.2%(同5.2以上)、eGFR64.3(同60~90)。
 過去の数値も表示されていて、それらの項目は年々りじりと上がっているではないか。そして今回どっと「黄信号」にひっかかった。
 ただ、HbA1cは過去も同じような値が並んでいる。5.2以上が血糖の状態が「要注意」。5.2は要注意なのか、知らなかった。最後のeGFRの60~89は腎機能が軽度に低下していることをあらわしている。医師にも指摘されず、自分でも気がつかなかったけれど、これは毎年90未満だった。それが赤にじりっと近づいた。
 血糖値は上がりやすいことを以前から認識して食事や運動に気をつけているが、腎機能も黄信号とは情けない。けれどそれがわかってありがたい。

 受講してから1週間以上経った今、講義の内容は頭の中からほとんどこぼれ落ちてしまったが、自分の体の状態についての認識が増した。運動と食事についての動機付けにもなっている。6か月後に状況を問い合わせてくるらしいから、そこそこ成果を出しておかなければならない。
 去年の末ごろに健診を受けたときは傷めたアキレス腱がまだ治っていなくてずっと運動していなかった。いまだに完治しないけれど、運動は受診したころからぼちぼちながらすでにやっている。
 腹囲測定用のメジャーをもらったので朝晩体重測定のつど測っているのだが、運動効果なのかどうか、もっか腹囲は83センチあたり。

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2012年4月23日 (月曜日)

日食めがね

 5月の21日は日食の日だ。それも金環食。「中心食線」とやらが南関東地方を通過するから、太陽の見える場所へちょっと移動するだけで真円に近い金環を観測することができる。こんな機会はまたとない。
 まずは日食観測用のメガネを買わねばならない。

 日食メガネはヨドバシカメラに売っていた。1500円ほどだった。もっと安いのもあった。紀伊國屋書店にも解説付きのメガネというのか、メガネ付きの解説本というのか、どっちかわからないが、あるいは両方あったのかもしれないが、ともかくもそんなものが置いてあった。いろいろあったが千円札でおつりが来る値段だった。
 それらのメガネは値段によってどういう違いがあるのか。

 今回の金環食のあと、6月6日にあるという「金星日面通過」を見るかもしれない。しかしその二つを観測したあとはもう使う機会がほとんどないだろう。だからなるべくなら安いほうがいい。
 とはいえ目は大事だ。安かろう目に悪かろう、であってはならない。耳が次第に聞こえにくさの度を増しているのに、目までが焼けて見えなくなりでもしたら一大事である。
 目の安全が確保されたうえで、できるだけ安いものがいい。

 調べてみると、1500円のメガネはVIXEN(ビクセン)製、「世界天文年2009日本委員会推奨日食グラス」だそうで、いわばお墨付き、信頼度は一番高そうだった。これにしておけばまずは安心できそうだ。けれども、なにしろ値段がちょっと・・・。安心を買っておけば無難、と手を出しかけては、そのつど伸びかけた手が止まった。
 ほかのものはどうなのか。玉石混交かもしれない。名の通った店で売るものであれば必要条件は満たしているのかもしれない。よくわからない。

 決めかねたまま、何週間か経った。その日まであと一か月となったころ、市立博物館に行った。売店に日食メガネが置いてあった。
 値段は399円。ずいぶん安いではないか。市立博物館なら安全性を確認したものでなければ売らないだろう。買おう、としてやめた。A4判ほどの大きさの平たいものを持って自転車に乗ることはできない。
 帰りに自転車の所に来て、今乗っている自転車には「かご」が付いていることに気づいた。かごに入れれば袋がなくても持って帰れる。いやじつは、そのことには最初からうすうす気づいていた。意識の底で買わない理由付けにしていたのだ。やはり調べてみてからでなければ。うかつには買えない。目は大事だ。

 インターネットで再度調べてみると、安全性でも見えの良さでもVIXENが一番のようだ。値段も一番。1500円程度。同じく光学機器メーカーのケンコーが出しているものもいいようだ。1000円弱か。市立博物館にあったのはアイソテック社製品。これもちゃんとした製品のようだ。JAXAでも扱っているらしい。あるいはJAXAで扱うものを市立博物館でも採用したのかもしれない。見え方についてはVIXENやケンコーに劣るかもしれないが、値段が値段だから仕方がない。「見え方」という要素があったか。それは考えなかった。だがそれには今回目をつぶることにして、よしこれにしよう。

 市立博物館に日食メガネを買いに行くと妻に言うと、彼女はたちまち娘に連絡を取った。孫にも買ってやりたいと言う。

 翌日ふたたび自転車に乗って博物館まで行った。買ったのはアイソテック社製日食メガネ(399円)を2個と、同じく「うちわ型」(504円)を2個。合計1806円。4つもいっぺんに売れて、売店の担当女性はうれしそうにしていた。
 400円ぐらいはしょっちゅう無駄遣いをしているのに、日食メガネ問題には長い日数がかかった。1800円にふくらんだけれど、ようやく解決してわたしもうれしい。

 さて、あとは当日の晴を祈るのみ。だが、日ごろ不信心の私が祈ったところで神々がかなえてくれるとは思えない。しかし、おそらく何十万人あるいは八百万人ぐらいの人たちが祈ったり念じたりするだろうから、そっちのほうはそれらの人々に任せることにする。もし当日晴れなかったら、その人たちも日ごろ八百万(やおよろず)の神々にご無沙汰ばかりしていたにわか神頼みばかりだということになる。

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2012年4月20日 (金曜日)

十円玉

 車のドアの手かけ穴に10円玉がひとつ入っているのに気づいた。いつ入れたのかとんと記憶がない。ドアのそんな所にあったということから推測するならば、おそらく外で拾ったのだろう。
 手に持ったまま乗り込んだものの、運転席に体を入れると小銭入れは簡単にはズボンのポケットから取り出せない。といって地面から拾ったものをほかのものといっしょにしたくもない。持て余して、外に一番近いところとしてドアの凹みに放り込んだ。とまあそんなあたりではあるまいか。
 運転席のすぐ横、乗るたびに手をかけてドアを閉めていたその指の先のほんの少し下に置かれたまま、もしかしたら何年もの間そこにあったのかもしれない。刻印は「平成十七年」、何の意味もないようだけれど。

 それで思い出したが、ずっと以前は車の小物入れに10円玉を何枚も置いていた。
 テレビで見たのか、誰かに聞いたのか忘れたが、公衆電話から電話をかける必要が生じたときに10円玉がないとかけられないから車に用意しておくといい、ということで10円玉をじゃらじゃらと運転席前のポケットに入れておいた、ように思う。100円玉も何枚か加えた。
 だが、車に乗って出かけて公衆電話を使う、というのはどういう事態が発生したときか、考えても思い浮かばない。
 そういえば500円玉もいくつか混じっていたような。そうすると電話ではなく首都高速道路などの有料道路を走るときの料金としてだったのだろうか。めったに有料道路には入らなかったのだが。

 有料道路といえば最近続けて入って両方とも大失敗をした。
 まず、先月国道16号バイパスを走ったのだが、旧道へ降りるつもりで左端の車線を走っていたところが、降りる前にその車線は東名高速道路への専用路に入ってしまった。右の二つの車線は渋滞で動いていなかったので車線変更ができなかった。
 入ったものはしかたがない、ついでだから新しく一区間だけ開通した圏央道の出口から出てみることにした。これが東名道路の上り側下り側両方と合わせて3つある最初の出口の中で我が家に一番近い。
 だが、せっかく持っているETCカードを車載器に差し込んでいない。走りながらカード入れからETCカードを探すのだが見つからない。カードが多すぎる。けれどクレジットカードは1枚もない。それはともかく、これだろうと見当をつけたものを引き出して差し込むが、読み取れないとか認識できないとか言って受け付けない。向きが逆か、表裏を間違えたか、別のカードか。あぶない運転を続けているうちに料金所まで来てしまった。あきらめて現金ゲートから入った。
 JCT(ジャンクション)より手前にSA(サービスエリア)があった。ともかくも入って一休み。かたがた壁の案内図などで圏央道JCTについての情報を調べた。
 さてふたたび走るとすぐにJCT。分岐路に入るとカーナビには新しくできたこの道路の表示がない。画面上で車は道路でないところを不安げに動いていく。だが、一本道だから迷いの私でもナビゲータなしで走れる。分岐路から圏央道の切れっぱしに入りすぐに終点。650円。カードを使っていたら割引があったのではなかろうか。
 さらにしばらく画面に表示されない道路を走って、ようやく地図と現実と両方の道が一致するところに出た。
 その数日後、もう一度カードを差し込まないまま、こんどは差し込んだと勘違いしてETCゲートから有料道路に入ろうとしたことがあって、このときは後ろの車数台に大迷惑をかけたが、そのいきさつを書くと長くなるので、ここらあたりで本題に(というほどの内容はないが10円玉に)戻らなければならない。
 もどる前にもう一つだけ道草。カードを差し込まないままETCゲートに入ったときは発券機から通行券を取ればいいということをそのとき知った。出るとき一般ゲートで割引が効いた。

 戻ろうとしているうちにさらに別のことを思い出した。やむをえないからもう一度脱線することにする。
 そのころは電車で外出して帰ってきたときに、駅を出て商店街を歩く途中で公衆電話から家に電話を入れることがよくあった。もう間もなく家に着くときに電話をしてもあまり意味がないが、食事どきであれば妻は準備を始められるし、そうでないときであればお茶の用意にかかれる。食事の準備はともかく、お茶は着替えている間にも淹(い)れられるから、やはり意味はない。まあ習慣といおうか。
 そのうちに携帯電話が普及してきて、ある時期から赤電話がしだいに減ってきた。赤電話のある場所に来ると、しばしばほかの人、私と似たような年恰好の中高年者がすでに使っていた。そういうときは次の赤電話まで行かなければならない。さらに減ると、電話をかける場所はさらにわが家に近づいた。そして駅からわが家までの沿道に赤電話はなくなってしまった。
 それでもかなりの間携帯電話を持たなかったので、「かえるコール」はできなくなった。だが、万一外出先で、とくに人の少ない山中で具合が悪くなったり、妻に緊急連絡の必要が生じたときのために、という理由で持つことになった。じっさいには、もう山には登らなくなっていた。
 おかげで赤電話を探す手間がなくなった。10円玉が足りなくなって話が途中切れになることもなくなった。赤電話と書いてきたが、よく考えるといろんな色の公衆電話があった。そういえばテレホンカードも長く使った。さまざまの時期のいろいろな公衆電話のそれぞれ違う使い方をいっしょくたに思い出して未整理のまま書いてしまったようだ。

 車の中に用意した10円玉と100円玉と500円玉は、考えても思い浮かばない本来の目的で使われる機会がないままに役目を終えて、いつだったか小銭入れに戻された。
 今回見つけた10円玉も長い休眠から目覚めて、めでたくふたたび小銭入れに仲間入りした。そしてたぶん、またすぐ出てしばらく人の手から人の手へ渡り歩くことだろう。その先のことは分からない。

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2012年4月11日 (水曜日)

ひまし油連想

 NHKの朝の連続テレビドラマは今、戦後間もない東京の蒲田で人々が焼け跡にバラックを建てて住んでいたころだ。
 先日、子どもが悪いものを食べたせいで様子がおかしくなって、「ひまし油」(らしきもの)を飲まされ浣腸される場面があった。

 同じころあるいはもう少しあとのころ、わが家にも「ひまし油」があった。スプーンにとろりと乗った「ひまし油」が頭に浮ぶのだが、それは飲まされる前に目の前に差し出されたものだったのだろうか。だが、誰がスプーンを持っていたのか、私はどういう状態にあったのか、なにも思い出せない。別に特定のあるときの記憶ではないのかもしれない。
 ひまし油のほかに「梅肉エキス」というものもあった。どちらも、くわしい用法は忘れたが要はお腹の具合が悪くなったときに飲まされるものだったようだ。悪いものを出してしまう、つまり下剤らしい。

 ほかに医薬品としてどんなものがあったか。薬包紙に包んだ胃薬があったような気がする。浣腸剤というのかその容器というのか、もあった。征露丸(いまは正露丸と書く)。こっちは逆に下痢止め。

 外科系の薬としては、赤チン、オキシフル、メンソレータム。オキシフルを傷口につけると、泡がぶくぶく出ていかにも消毒しているように見えた。メンソレは今もわが家の常備薬のひとつだ。
 すこしあとになるが、外科医院の先生はなにやらいばっていた。何年か前まで軍医だったのかもしれない。あるとき、どんな怪我をしたのか忘れたが、一人で行って椅子に座って待っていると、先に診てもらっていた若い女性の患者が注射をされることになって、私から見ると横向きでお尻を出した。待つ人と診察治療を受ける人が同じ部屋にいたということなのか、よく分からない。私はいくつだったのか、女性が気にしないほどに子どもだったのか、いやそんなはずはない、じゅうぶん気にされていい歳だったはずだが、これもはっきりしない。わたしは、よくないことだという後ろめたさを感じながら正面何メートルか向こうで行なわれていることをじつは興味津々見ていた。その先のことは覚えていない。先生と患者が向きを変えたか、私から見えないところに移ったか、注射をやめたか、私が追い出されたか、見るなと言われたか、どう展開したのだろう。今あらためて思い返してみると、そのひとは普通の家庭の普通の女性ではなかったような感じがする。
 話が変な方へ逸(そ)れてしまった。薬の話をしていたのだった。

 思い出すのはお腹の薬と傷薬ばかりだ。すり傷、切り傷、やけどなどという小さなケガは子どもにつき物だった。そして、お腹をこわしやすかったのだろう。
 わが家に限らずそういう家は多かっただろうが、子どもがなま物を食べることはなかった。すべてしっかり熱を通したものを食べた。桃やバナナも傷みやすいからと子どもは食べさせてもらえなかった。そういうことには父親が特にうるさかった。

 医療用具としては、包帯、ガーゼ、ピンセット、水銀体温計、氷まくら、氷嚢(ひょうのう)。油紙、とげ抜きもあったように思う。
 とげはよく刺さった。あるとき、針が刺さって折れた。針穴(めど)の側は見つかったが、針先の側が見つからなかった。そのままにしていたが、私が痛がったのか父が心配したのか覚えていないが、病院に行ってレントゲンで調べてみると、針先は体内に残っていた。少し心臓の側に移動していたと聞いた。どうやって取り出したのか記憶にない。

 それらは木製の救急箱に入っていたような、富山の置き薬屋が来ていたような、気もするが定かでない。
 それと、これは薬に含めていいのかどうか、お灸用のもぐさもあった。子どもにとっては薬よりはおしおき用具、あるいは言うことを聞かないとお灸をすえるぞというおどし用具だった。

 戦後直後のころは薬局も病院も近くになかったはずだし電話もなかったから、子どもが急病になったときはどうしていたのだろう。手元にある薬を飲ませて、氷枕や氷のうで頭部を冷やしながら様子を見るしかなかったのだろうか。

 病気になると片栗粉を水で溶いて砂糖を加えて暖めたものを食べさせてもらえた。おいしかった。病気でなくてもときどき作ってもらったように思う。
 昔を思い出して妻に頼んで作ってもらったことが何回かあるが、彼女はめんどくさがりながら作った。妻はお袋の代わりにはならないことがよくわかった。

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2012年4月 6日 (金曜日)

気管支炎でCT検査

 先月の末ごろ、乾燥注意報が出て家の中の湿度計も30%台にまで下がっていた夜、最近はたださえ睡眠中に口の中からのどにかけて乾きやすいのに、その夜は片鼻が詰まってしまってそのまま開通せず、息を吸うときに乾いた空気が一穴だけの鼻の穴から勢いよくのどの奥まで飛び込んで、のどの奥がからからに乾いた。
 寝苦しいままに寝ていると、扁桃腺がはれたような感じになって、つばを飲み込みにくくなった。さらに、気管も痛くなってきた。起きた後、鼻水がたらたら垂れるようになった。これには困る。いきなりぽたりと落ちるのだから。ティッシュペーパーを取って受けるなどというひまもあらばこそ。

 風邪を引いたのかもしれない。症状はいかにも風邪だ。なのに、風邪を引いたときにいつも感じる気持の悪さや体力気力の減衰がなく、感覚的にはいっこうに風邪ではない。
 花粉症かもしれない。その症状がたしかにある。けれど、発症の経緯は花粉症らしくない。夜寝ている間にとつぜん花粉症を発症するなどということはあるまい。

 急性の気管支炎だろう、じきに治るだろう、と自己診断して医者には行かなかった。風邪という感じがしないので、暖かく安静にして過ごすという風邪のときの私の養生訓を実行せず、わりによく出かけた。
 家の中にじっとしているとき、とくに夜になると、気管が痛くて呼吸がつらいのに、それ以外はまずまず元気なので、じっとしておれず外に出る。出るとかえって痛みを感じず呼吸が楽になった。けれど、帰ってくると痛みが戻り、夜は吸う息が痛くて気持ちよく眠ることができない。

 比較的元気とはいえ呼吸がつらいというのはやはりつらい。数日経っても症状はあまり変わらない。あまり変わらないけれども山は越えたと感じていた。
 けれど痛いだの苦しいだのとのべつ言う私にうんざりしている妻にせかされて、月曜日にとうとう医者に行った。夕方は待ち時間が少ないと以前に行ったときに聞いたから4時ごろ行ったところが、たっぷりの時間待たされた。

 ようやく呼ばれて待合室から奥の廊下にある椅子に移り、そこでも待って、やっと看護婦さんによる症状などについての問診と血圧測定。110/62。いい数字だ。さらに数人待って先生から呼ばれた。

 症状の補足説明のやり取りの中でCT検査を勧められた。そろそろ年貢の納め時かと観念して受けることにした。内視鏡検査もどうかと二の矢を継がれて、もう毒食らわば皿までそれも受諾。内視鏡検査はその医院で、CT検査は国立病院で。
 予約を取るからと診察室の外でまたまた待たされる。

 今年の初めに市の検診を受けたとき、問診のときに食べたものが食道につかえることがあると言ったことや、胃のバリウム検査に対して「要精密検査」という検査結果が市から戻ってきたことを受けて、内視鏡検査かCT検査を受けるよう医師に勧められたのだが、そのときは辞退した。
 異物を体に押し込まれるのはいやだ。X線もできるかぎり受けたくない。だから次回の検査の結果によって考える、と回答していたのだ。

 とはいえ、妻は心配だから精密検査を受けろとうるさく言い、私もまったく気にならないというわけではない。だからここであらためて勧められたとき、そろそろ潮時かと観念したわけだ。が、待てよ。
 きょう来たのは気管が痛くてなのだ。食道や胃には関係ないではないか。いったいどういうことなのか。私は耳が遠い。先生はもごもごした言い方をする。聴き取れなくても訊き返さずに適当に聞き流すくせがついているので、何か説明があったのに聞き逃したのかもしれない。

 もう一度呼ばれて診察室に入り、予約が取れたことなどの説明を受けたとき、そのことをたずねると、食道から異物が逆流して気管に入ったかもしれないなどという説明が帰ってきた。なにやらすなおには飲み込めない論理だがめんどくさくなってそれ以上訊き返すのはやめた。もごもご言う先生とそれがよく聴き取れない患者が話してもうまくかみ合っていないのかもしれない。要は検査を受けさせたいのだ。あるいは検査をしたいのだ。妻が敵に回っている以上、市とその先兵である医師とを相手に抵抗を続けるのはむつかしい。
 それに、もしかしたら、患者のわがままを許したことに対して先生は市から何か言われたのかもしれない。それであればちょっと気の毒ではある。

 薬を出しておこうかというから、出してほしいと答えた。それが目的なのだ。私は気管の痛みを治してもらいたくて来たのだ。

 するとこんどは、C型肝炎の検査をするために採血したいと言う。あいまいな言い方が引っかかるが深入りしないことにして、またまた待って、採血。
 ようやく待合室に戻って、さらにさらに待つ。会計と薬の説明と次回予約についての注意事項の説明などが終わったのは、もう外は薄暗い6時半。ここで血圧を測ったら、とても110/62ではすまなかっただろう。

 帰って、たかが気管の痛みで行ったのにたいへんだったと妻に縷縷(るる)話すと、あなたはいろいろ言い過ぎるのよと。

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2012年3月31日 (土曜日)

風の音

 きのうから強い風が吹いた。きょうはさらに強くなって嵐の勢いで吹いたらしく、鉄道が止まったり、高速道路が閉鎖されたりというニュースがテレビで流れていた。よほどの強風が吹いたようだ。
 一日外に出なかったがときどき窓から見ると、今はもう寒冷前線が通り過ぎたらしく、雨はもう止んだようで風も収まっているが、昼過ぎには植え込みの木がだいぶはげしく揺れていた。
 強く吹いていたときも風の音は聞こえなかった。

 マンション住まいをしていると外の自然から遮断されて、風の音も雨の音もよほどのものでないと中に入ってこない。静かといえば静かで、外が荒れても安穏に過ごすことができる。遮音性能の高いサッシュ窓の威力は大したものだ。
 しかし、見えるのに聞こえないというのは不自然でもある。

 それに比べれば、昔住んでいた家ではもっと自然に外の音が家の中に入ってきた。風がガラス窓や雨戸に当たれば、そこでガタガタと新たな音が発生した。
 人工音は少なかったから、戸外からの人工的な騒音はまずなかった。たまに走る自動車は、その音も排気ガスのにおいも、珍しくてむしろ好ましかった。
 虫もよく入った。開けても閉めていても。

 空調機などまだなかったそのころのわが家は、700年も昔に兼好さんが『徒然草』で指南したとおりに「夏を旨とすべ」く作られていて、窓が多かった。
 縁側の床からの掃き出し窓、座敷の肘掛け窓、それ等の上にある小窓、腰窓、など、現代よく見かける空調を旨とした住宅に比べるとそこら中窓だらけだったという感がある。しかも各部屋を仕切るふすまを開けると、ほとんど全部の部屋がつながって南側と北側の開口部から風が通り抜けた。

 奥の八畳間の肘掛け窓は一間半の幅に4枚のガラス戸。ガラス戸は木枠造りで、1本の縦桟と何本かの横桟で仕切られた中に3、40センチ角ぐらいのガラス板がはめられていた。ガラスはパテで抑えられているわけではなかったから、ゆすられるとがたがた音を発した。中の1枚は平らでなく、ゆがんでいた。
 下に戸車がついていて、鉄のレールの上をカラカラと走り、ときどきガタガタと引っかかった。レールは2本あって、1本に左右の端の2枚のガラス戸、もう1本の上に中の2枚が乗っていった。
 鍵は、ねじ締り錠というようだが、真鍮かなにかの金属製の5センチほどの棒で、先端が少し太くなってネジが切ってあり、手元は平たくなっていて指でつまんで回すようになっていた。右の2枚と左の2枚それぞれを木枠の重なり部分の中ほどに開けられた穴に錠を差し込んでねじ止めした。現在ではまじないほどの効果しかなさそうだが、それで泥棒は入らなかった。

 肘掛け窓の外側に手すりがあった。もちろん木製。猫は縁側や台所から入れないときは八畳間の手すりからにゃあと鳴いて入れてもらった。

 ずっと以前に伊豆半島をドライブしたとき沼津御用邸を見学したことがあるが、そこの窓が昔の家の窓とよく似ていた。家の格はまるで違うが、窓の形、その木枠、古び具合、ふにゃりとゆがんだガラス、などを見てなつかしく昔を思い出した。

 サッシュ窓に比べれば隙間が多くて風が吹けば騒がしい無用心な窓だったが、中と外とをあまり隔てない窓だった。
 今の基準に照らせば窓としての機能を果たしていない欠陥窓だが、その素朴さ締まりのなさが、子どもだったあのころのもろもろのことによく似合っている。

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